がんばらないけどあきらめない

挑戦して失敗して、成長することを目指すブログです。

20230417

『学ぶ』とは?

自分の中での『学ぶ』

『学ぶ』=『楽しい』を見つけるためのフックを増やす

子どもから聞かれたときにどうするか?

少なくとも『学ぶ』ことは自分のためにすること、とは伝えたい。
「勉強したくない」とか「やりたくない」に対してどう答えるか?
自分のために行うことは裏返せば自分の責任であると伝えたい。 

最終的な責任を自分で取る必要がある。

勉強しないことで、学校での点数が下がったり、先生になんか言われるとかは自分の責任のもとに享受してもらう。
というか、結局のところ点数化できる部分は親、特に自分はそんなに評価をしなくていいかなと。
結果については本人が分かってるだろうから、あと否が応でも先生からなんか言われるだろうし。
そのプロセスに目を向けるのが親の役割なのかなと。

将来的な何かのために勉強するのか?

あとは将来の職業選択肢のために勉強するのか?
個人的にはあまり将来がどうとかは考える意味はないかなと。
意味がないとは強すぎる気がするが、将来どうなるかはわからないという意味。
勉強をしておけば将来安泰かというとそんなことはないと思う。

もう一つ言えることは、将来の職業のために勉強するとなると、
目標とする職業に関係ない科目を行わなくていいことになりそう。
それはつまらなさそう。
そもそも論になってしまうが、職業に憧れるのは枠組みにとらわれすぎてしまっている印象がある。
職業を目指すのではなく、行為そのものを目標にするほうが良い気がする。
例えば、『お笑い芸人』になりたいとすると、それしか選択肢がなくなる。
しかし、『人を笑わせる』という行為に目を向けると、漫画やマジシャン、落語など様々な選択肢が増える。

閑話休題、職業にフォーカスすることで勉強の科目を限定的にする可能性はあまり健全ではないかなと。
「自分は将来宇宙飛行士になります。だから、理系と英語は頑張ります。ほかはやりません」
それはちょっと不健全な感じがする。

『学ぶ』と『楽しい』

小中高、それどころか大学含めて、割と受け身な勉強が多かった。
だからと言ってつまらなかったかというとそういうわけでもない。
ただし、『楽しい』ってのは数学ぐらいだったかな。
今は歴史とか哲学とかは楽しく学びをできている。
知識として入れたがってるけど、昔は全然興味がなかった。
この辺の変化は何だろうか?

『楽しむ』ための『学び』

自分は『楽しむ』ために『学ぶ』。
何て言えばいいのかな?
参考元や引用、元ネタやオマージュを知っていることでの『楽しさ』を見逃すこと、拾えないことへの恐怖心がとても強い。
例えば『ゴールデンカムイ』を読む前に『ショーシャンクの空に』を見ているかどうかで一コマの『楽しさ』の度合いが変わる気がする。
それを見逃すことがとても悔しいのだ。

『つながり』を見つけて『楽しむ』

もうちょっと抽象度を上げてみる。

『学ぶ』とは『つながり』を見つけて楽しむ自分のために行うこと。

義務教育の中だとどうしても点で判断するしかない。
おお、なんかうまいこと言った気がする。
『数値化する』しかないし、『ポイント』で知識化するしかない。
『数値化』はあっている/あっていないのデジタルでの判断。
『ポイント』ってのは、歴史とか年号のつながりを見出しづらいということ。

『学び』っては学問も含めてだが、点よりも線、線よりも面のイメージが強い。
よくネタにされるのはスティーブ・ジョブスがカリグラフィーを大学で受講していたから、アップルのスタイルが確立された。とか。

いろんな『つながり』を見いだす。
ここで大切なことは、『正しいつながり』である必要はない。
自分なりの『仮説』『想起』『アナロジー』を見出すことが重要である。
決して正しさを求める必要はないし、ロジカルなものである必要もない。

結局、子どもから聞かれたら

今んところ、自分が子どもから「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞かれたら。

「つながりを見つけて楽しむために勉強するんだよ。」
っていう風に言ってみるかな。
で、意味分かんないって言われたら
①勉強は自分のためにすること
②だれかに言われてすることではない
③するもしないも最終的な責任は君がとる
④つながりを見つけると楽しいが増える

なんだろう、『点』の知識がこう『線』になって、最終的に『面』『立体』『世界観』になるのは楽しいことだよ。
そんな価値観をできれば知ってほしいかな。