まだ街が深い静けさに包まれている早朝、ふと目が覚めます。カーテンの隙間からかすかに差し込む青白い光の中で、起き抜けの身体に一杯の水を注ぎ込みます。透明なグラスを伝うひんやりとした重みが喉を通り、ゆっくりと身体の奥へと染み渡っていくにつれて、輪郭の曖昧だった意識が少しずつ自分の中に戻ってくるような気がします。
柱時計の振り子が、チクタクと一定の速さで時を刻んでいます。その規則正しい音を聞きながら机に向かい、お気に入りのノートを開いて万年筆のキャップを外します。インクが紙に触れ、かすかな摩擦音とともに青い線が広がっていくその瞬間、私は「今、この場所にいる自分」と静かに対面しているような感覚を覚えます。
日々の暮らしの中では、スマートフォンの画面を開けば、歩いた歩数や睡眠の時間、集中していた分数など、さまざまなデータが数字やグラフとなって並んでいます。それらを眺めるのも、私にとっては決して嫌いな時間ではありません。長い時間のスパンの中で自分がどんなふうに変化してきたのか、どんな足跡を残してきたのかを客観的に見つめる鏡のようなものとして、デジタルの記録はそっと寄り添ってくれているように感じられます。
けれどその一方で、万年筆を握り、自分の手で文字を連ねていくアナログな時間は、何物にも代えがたい「今この瞬間の自分の輪郭」を確かめる作業なのかもしれません。今日は心が少しざわついているなとか、どこか肩に力が入っているなといった、数字には決して表れない微細な心の温度や手触りのようなものが、インクの滲みや筆圧の強弱の中に自然と滲み出てくるのです。デジタルとアナログ。そのふたつは対立するものではなく、自分という存在の今と昔、感覚と事実をそっと教えてくれる、大切なふたつの窓のような役割を果たしてくれている気がしています。
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そんなふうに静かに朝を整えていても、一歩部屋を出て日常の渦の中に足を踏み入れると、現実は決して思い描いた通りには進んでくれません。
むしろ、最近の私は「予定通りにいかないことのほうが当たり前なのだ」と、どこかで静かに受け止めるようになりました。かつての自分であれば、綿密に立てた計画が狂ったり、急な出来事に振り回されたりするたびに、焦りや苛立ちを感じていたこともあったように思います。
もちろん今でも、自分なりの「一番良い物語(ハッピーストーリー)」は心の中でそっと描くようにしています。今日という日がこんなふうに穏やかに進み、大切な仕事や役目が心地よく果たせたらいいな、という温かな道筋を思い浮かべておくことは、心を前へ進めるための優しい灯火になってくれるからです。
けれど、それはあくまで「そうあれたら嬉しいひとつの道」に過ぎないのだとも思っています。身近にいる大切な人が突然体調を崩してしまったり、仕事の現場で予想もしなかった対応を迫られたり、誰かの感情の波が大きく揺れて周囲を巻き込んでしまったり。日常というものはいつだって、私の手の届かない場所で生まれる波に満ちています。
だからこそ、あらかじめ描いたハッピーストーリーを頑なに握りしめて「こうでなければならなかったのに」と自分や誰かを責めるのではなく、「基本的には思い通りにいかないものなんだ」とあらかじめ心に余白を持たせておく。そうすることで、予期せぬ出来事が目の前に現れたときにも、深呼吸をひとつ挟んで、「じゃあ、今の状況の中で、自分の大切にしたい価値観や優先順位に照らし合わせたら、どれを選ぶのが一番ベターだろうか」と、静かに選び直すことができるようになってきた気がするのです。
完璧なベストを探し求めて立ちすくむのではなく、その時々の現実の中で、誠実で無理のないベターを探していくこと。それは、これまでのたくさんの失敗や空回りを繰り返してきたからこそ、手探りで見つけることができた、私なりの小さなお守りのような知恵なのかもしれません。
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誰かと向き合うときも、似たようなことを感じます。 人は誰しも、体調が優れなかったり強い不安に襲われたりすると、心に余裕をなくして棘のある言葉を発してしまったり、周囲に感情をぶつけてしまったりすることがあります。そんなとき、相手の放った感情の矢を正面からまともに受け止めてしまえば、こちらまで疲れ果てて一緒に倒れてしまいます。
最初から上手に距離を取れていたわけではありません。真正面から受け止めて自分までボロボロになってしまったり、どうにかしようと焦って空回りしたりした経験が何度もありました。そうした苦い失敗の積み重ねを経て、近頃は「人と人との間に、そっと柔らかなクッションを挟むこと」の大切さを覚えたように思います。
相手が感情の波に呑まれているときは、あえて少しだけ物理的な距離を置いてみたり、部屋の空気をそっと換気してみたり。あるいは、静かなラジオや環境音を背景に小さく流しておくことで、お互いの張り詰めた意識を少しだけ別の方向へ分散させてみたり。そんなささやかな工夫を挟むだけで、相手の苦しみを否定することなく、それでいて自分自身の心の静けさも守ることができるような気がしています。
冷たく突き放すのではなく、かといって過剰に巻き込まれもしない、ほどよい間合い。そのクッションを差し挟むことができるようになったのも、朝の静けさの中で「自分の心の輪郭」を一度確かめられているからなのかもしれません。
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もうひとつ、ここ数年の自分を振り返ってみて、心の中に静かに芽生えた頼もしい変化があります。 それは、「一度習慣が途切れてしまっても、また再開できるという自信」が持てるようになったことです。
かつての私は、手帳を毎日書くことや、身体を動かすこと、食事や生活のリズムを規則正しく保つことに対して、どこか「一日でも途切れてしまったら、すべてが台無しになってしまう」というような、脆くて厳格な思い込みを抱いていたような気がします。そのため、仕事が立て込んだり、プライベートで予期せぬ事態が重なったりして習慣が途絶えてしまうと、「ああ、また続けられなかった」と情けなく思い、そのまま投げ出してしまうこともありました。
けれど、生きていればどうしても、自分の習慣どころではなくなる時期というものが訪れます。大切な誰かを看護しなければならない日もあれば、目の前の務めを果たすだけで精一杯な夜もあります。そんな日々を何度か通り抜けていくうちに、ふと気づいたのです。
どれほど忙しさに追われて間が空いてしまっても、嵐が過ぎ去って波が穏やかになったとき、私はまた机に向かい、万年筆を手に取り、静かにノートを開くことができていたということに。
習慣というものは、一度途切れたら壊れてしまう細いガラス細工のようなものではなく、日常の波に揺られて少し遠くへ流されても、いつでも戻ってくることができる「心の港」のようなものなのかもしれません。「たとえ今ここで途切れてしまっても、私はまたいつだってここに戻ってこられる」。そう信じられるようになったことは、日々のどんな計画やルールよりも、私を根底から支えてくれるしなやかな強さになっているように感じています。
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東の空が少しずつ明るくなり、部屋の陰影が柔らかくほどけていきます。 手帳にペン先を走らせていた手を止め、深く息を吸い込むと、胸の奥にあった強張りがすっと抜けていくのがわかります。
今日という一日も、きっと私が描いたハッピーストーリーの通りには進まないかもしれません。思いがけない連絡が入るかもしれないし、誰かの看病に追われるかもしれないし、予定していた仕事を持ち越すことになるかもしれません。
それでも、予定通りにいかない現実をまるごと引き受けながら、その時々の自分にとって一番誠実だと思えるベターな選択を、ひとつひとつ重ねていけたらいいなと思います。途中でリズムが乱れてしまっても、また明日の朝、この机に戻ってきて一杯の水を飲めばいいのですから。
グラスの底に残った最後の一口を飲み干し、万年筆のキャップをカチリと閉めて、私は今日という新しい一日へ、ゆっくりと歩き出そうと思います。
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